詩・モード Z a m b o a volume . 19 |
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select contents 特集 笹野裕子 be on sale 今年の夏 手の記憶 すかすか キトエ荘あたりに 町の挨拶 連載 耀野口ミナリ / INTO THE MIDAIR 真っ白な表紙を 何度も眺めては この詩集には白がぴったりだ と何度も思う。 (荷物の多い鞄に入れて持ち歩いていたので カバーは外した) そしてその理由を ずっと考えている。 何気ない語り。 見えているのに 時々見えなくなるような日常。 淡々と、それでいて やわらかな言葉の重みが 私の色んなくぼみに落ちてくる。 シィシィと白い夏の音の中 ひとつ。またひとつ。 大事な物を手に入れた時のような 静かな高揚感と 小さな痛みと。 それから 何も無かったように 白い重みに揺れ動かされてゆく。 text●ni-na |
今年の夏 今朝の電話 姉さんの声はどこか呆けた人のようだった お父ちゃんの肺に影があるらしいんよ 大丈夫なん? 大丈夫なわけないのに間の抜けた声でわたしは聞いた もう煙草やめたらって言うたら 死んだら 吸わんじゃろう って笑うんよ そうか そう言ったのか父さんは 笑ったのか父さんは はじめてわたしは尊敬した 本の一冊も読まず 大きな声で 法螺話ばかり ちゃぶ台をひっくり返し 増築中の自宅の壁をハンマーで壊し 借金の保証人になっては貯金をごっそり持って行かれ それでも人に好かれたいから 一晩でサラリーマン一と月分の給料ほどを大盤振る舞いすることもあった 出かけるときにふわりと巻いた 臙脂のシルクのマフラーがよく似合っていた ろくでもない62% かわいげがある11% あきらめ27% (一九七〇年度わたくし調べ)だった 昨年度調べ では かわいげがあるが70%にまで上がっていた 父さんはしぼんできていた 昔は憎ったらしさがぱんぱんだったのに 電話を切ったとたん ひーって変な声で泣いてしまったから 目も鼻も腫れてしまったから もうお昼になってしまった 近回りするために入った公園の 白茶けた土が 太陽を照り返す 足が重い 立ち止まり ぐらりと揺れる空を見上げる となり村のおばさんが狐つきにあった話 父さんが話すと なんであんなに面白かったんだろう pagetop / contents |
手の記憶 男の動く気配で目が覚めた となりの枕に顔がない 足がある 眠ったまま ぐるりと半周している すごい寝相だと あきれていると もぞもぞと近づいてきて 私の足をなでる 二度、三度 大切そうに 太ももをなでる こんな夜中にと 思いながらもどきどきと待つ が 男はそのまま 私の足に顔を寄せたまま すやすやと幸せそうに眠ってしまった 寝ぼけてなでただけらしい いつもの癖だと思うと おかしくなる いとおしくなる いま私は 夢の中で抱かれている この男は いつまで私の足をなでるだろう 何年後か 何十年後 誰からも足をなでられなくなる日が きっとくる そのとき すっかり枯れて 棒のようになった 私の足は 今夜の男の手を思い出すかもしれない 寝ぼけた男の 温かい手が 三十代の終わりの思い出になる いつか去っていく男に ありがとう と言えそうだ そして できるなら 死の一分前 生まれなかった子供や 早くに逝った母や 楽しく過ごした友との日々を思い出した後に ほんの数秒 男の寝ぼけた温かい手を 思い出してから死んでゆこう 三十代のぬくもりを 抱きしめてから眠りにつこう たとえそのとき たったひとりだとしても 私はきっと 思い出し笑いをしながら 静かに小さなジャンプができる pagetop / contents |
すかすか からだの真ん中あたりがすかすかとして 眠れない 午前二時 紅茶味のスコーンを口いっぱいにいれる 噛めば噛むほど 口の中で増え続けるスコーン 歯と 歯ぐきと 上顎と 下顎と くちびるの裏側と 頬の裏肉と 動かすほどにあらゆる場所に入り込み もそもそ わさわさと さらに増え 唾液も吸い取られ 顎がだるい あの人の顔が浮かぶ ちからまかせにもう一度口を動かす 牛乳でむりやり流し込む このスコーンはとても高い そしてとても美味しい 口の中で増えつづけるもろもろを 牛乳で流し込んだときに 味と香りが立ちあがってくる それはそれは ロイヤルでミルクなティーの味わいである ただ困ったことに 味も香りもいまの私を満たしてはくれない ぽっかりとあいた からっぽ わっしわっしと咀嚼し ぐいぐいと呑み込んでも いっこうに埋まることのない すかすか 私はもうひとかけ スコーンをほうばる 口の中で増えつづけ 増えつづけ なのに 肝心な場所に落ちていかない すかすか からっぽはますます大きくなっていく 私はスコーンをほおばりつづける 夜中にひとり すかすかと pagetop / contents photograph : : ni-na |
キトエ荘あたりに 空がどんよりと曇ってきたので 急いでタクシーに乗り込む どちらまで と聞かれ 行く先の住所が出てこない あ、と言ったきり黙りこむ 頭のなかを言葉の切れはしがぐるぐると回る どちらまで 機械のように運転手が繰り返す 道を言います それでいいですか とりあえずこの道をまっすぐに 私の言葉に応えないまま運転手は車を走らせる 写真屋があり クリーニング屋があり そのとなりが古びたパン屋 見慣れた風景が続く 道さえわかれば行き着ける 次の信号を右に曲がってください 道路沿いに咲いた桜がいっせいに花弁を散らす 風がおおきくうねる ゆっくりと車が右折する このまま真っ直ぐですか そう問われ 窓の外を見る 先ほどまでの見慣れた風景が いつの間にか見知らぬものになっている 真っ直ぐだろうか どこかで曲がった方がいいのだろうか 公園で子供がはしゃいでいる ぴしゃりと若い母親がぶつ 樫の葉が揺れながらハレーションをおこす まっすぐですか いらだったように運転手が聞く 次を左に 何のあてもなくせかされるように道を決める なぜ私はいつも 急いでいるのだろう 急ぎすぎて 急ぎすぎて 回り道をしてしまうのはどうしてだろう どこまで行っても見慣れた風景など出てこない大通りを 運転手はもう私に問いかけることもせず 車を走らせる メーターがカチッとあがる バックの中で財布を開き ちらとぬすみ見る 指でお札を数える いつたどり着けるのか 目標になるような建物はないんですか ごくありふれた住宅街の その中で一番大きな建物なんです 新 築の白い大きなマンションです 南向きのベランダでは鳩の雛が 死んでいました 私はカーテンを閉め切り一日中泣いていました 結婚祝いにいただいた大きな観葉植物も枯れました 人を待つ のはずいぶんと衰弱する行為です 荒れはてた美しいマンション でした となりにキトエ荘という古ぼけた小さなアパートがありました 変な名前でしょう バス停でバスを待ちながらそのアパートをぼ んやり眺めるのが好きでした 何十年も前にタイムスリップした ようなそのアパートを眺めるのが好きでした キトエ荘は人の匂 いがしていました キトエ荘ならあなたがさっき この車に乗った場所だ 運転手は哀れんだように言う ああ そうだった 白いマンションからけさ家具を運び出した それぞれの住まいに向かって二台のトラックが走り去った 新しい場所に向かうはずだった 自分で壊し 自分でつくりあげるはずだった もう一度戻ってみてください キトエ荘のあたりの 戻っても何もない場所へ 言いかけてまぶたをぎゅっと閉じる つばを飲み込む 言わない メーターがかちりと上がる pagetop / contents photograph : : ni-na |
町の挨拶 引っ越してきたばかりの町で 郵便局を探す ひとつめの角を曲がると 白髪の男が立っていて ハツカネズミの羽は何色かと わたしに問う 羽はない と いうと 曲がり角の手前まで戻される おまえの来るところではない 唾を吐かれる 郵便局に行きたいだけなのに 道がわからない 少し先を右に曲がってみる ねえ、ガジラム・マサランの実は苦い? 五歳くらいの少女が 腰をくねらせながら聞く 媚びを含んだ目が意地悪そうに光る 睫がやけに長い こういう手合いは嫌いなので 一瞥をくれて通り過ぎる バカ 甲高い声と一緒に 小石が飛んでくる 振り向くと少女はいない 前に向き直ると 道は 私の背くらいの塀で ふさがれていた これが私への 町の挨拶か 飛び越えられないと思っているのだ 見くびっているな と思う どうやらこの町には 私の知らない掟があるらしい 手紙など もうどうでもいい 問題は 郵便局の場所ではない ゆっくりと大きなストライドで走り出す スピードを上げる 塀に飛びつき てっぺんに手をかける 膝をすり 腕を打ち 塀の向こうへ顔から着地する 鼻先で い草の勾いがする 乾いた冬の田圃が広がっている 大きく息をついて仰向けになる 書き割りのような薄っぺらな空だ 本当のことは どこかに隠されている 寝ころんだまま 空のほころびを探す pagetop / contents |
今年の夏 ことしのなつ KOTOSI NO NATU 1999 Soratobu Kirin-sya All texts copyright 1999 YUKO SASANO そして、この詩をお手元に。 be on sale |