詩・モード Z a m b o a volume . 6 |
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photograph : : ni-na |
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地下鉄の駅は おならの匂いがするでしょう 雨のはじまりの数滴の匂いは好きですか 一生洗ってもらえぬ犬の顔は 樽に寝かせた土色に匂うのです 女の鼻先の埋まる 男の腋の下はくぐもった匂いで 精液は糊付けされたリネンのように つーんと匂い そうして ゆっくり思いだして 匂いを いつか嗅いだことがあるのだから 私の匂いは懐かしいですか |
photograph : : ni-na |
毎晩電話のベルを聞く頃 私は長風呂からあがったばかりの 上気した頬で冷蔵庫の中をのぞく 今晩の声は かすれ飛んでいる 毎晩残業で 「いそがしいんだけど」 夜ご飯はいつも仕出し弁当という男 きっと走ったあとなのだ リノリウムの端がぺろりとめくれた細い廊下を 体をゆっさゆっさ大きくゆすって 「何分も時間がないんだけど」 予防線をはっておきながら 私にどんな一日だったかと聞いてくる 私の作り話の紙芝居 うかがう男は いつもからくり一つ見抜けぬふりをする 今晩は会社の人と 夜桜のトンネルをくぐったの 愛宕神社の境内 ぬかるんだ土の道で 飼われている 老犬の瞳はしれしれと濡れてたわ photograph : : ni-na |
蛇口は洪水だ ステンレスの ドラムを打っている シンクのへりに顔を寄せ 冷蔵庫で目と目があった ずっしりとみずみずしいモモをかじった 手首の青い筋に 逃げようとする果汁を 唇を押し付けてすすった 赤ちゃんがにぎりしめた こぶしくらいの すじとおぼろげに歯型のついた 肉におおわれた モモになると どれほどにかじっても そこから先は 二度とあれほど あまくない だから 私は少し焦りながら 飴玉のように種までしゃぶる 明日シンクのへりに また ひからびた種がカランと転がるまで |
初秋の清水寺で撮った 記念写真ができた しゃちほこばった 母娘は われながら よく似ている 足のカーブ 服のシュミ 私が母のかたちになりつつあり 母が祖母のかたちになりつつあるなら ほどなく私も 祖母のような人になれる とでもいうのだろうか それはあまりにも とおい約束 去年の暮れ頃 ぎりぎりの状態から はじめて半身起こした時にのんだ水を 茶目っ気たっぷり 「末期の水じゃなくて、復活の水です」 そんなことをいった祖母の震える指 「私は悪いお手本をみせるから、 あなたはよくみておいてくださいね」 母と私に そういってのけたあと 「今日はもうこないかとあきらめてました」 珍しい涙を 気丈なその目にためて待つ枕元まで いったい何を石炭にしてあなたは走ってきたのだろう |
思いがけなく 便りの返事をもらった 無地で白地の便せん 小学生の作文みたいな なつかしい男の字だ 下敷きの罫線に やけに忠実になろうと努力したあとがあって ところどころふにゃふにゃしてしまっている 静かな手紙だ 慎重に言葉をえらんでいる 暖かい手紙は もう今は私を 突き離しも しないかわりに 手繰り寄せることもしない そっとコートの内ポケットにしのばせて 分厚い一枚硝子のドアを体ごと押し開ける 戸外 冷たく湿った重い風と向かい合わせ 一歩を踏み出す 昨夜一晩で 寝ててちっとも気付かなかった 雪が 十センチも積もっている 結晶が音を吸っている なんてちっとも気付かなかった ときどき道に迷いそうな気持ちになった夜のように もう靴音たかく 歩く必要はない 気を引こうと 声高くわらうことも必要ない 今夜も粉雪がすこし降るといい 雪も むごいことも いつしか溶かされ なだらかになるから 私は何度も コートの内ポケットに手をいれて 手触りをたしかめる ふわりふわり もうミモザの雪がちらつきはじめる この街も 天気予報どおりに
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勾配のきつい坂には 泳げない私がいる 小さなガラスの破片はそっと黒光りしている ● 『勾配のきつい坂』 川本真知子 ふらんす堂 ¥2500 送料無料 問い合わせ等はメールして下さい |
photograph : : ni-na |
長谷部奈美江 治らなくてもいいんです 医者から言われ 電車に乗っている 母と別々の部屋に通され 診察を受けたのは子供の頃のこと 「あれって、黒目の働きかしらね」 「かわいそうに」 若い看護婦たちの囁きがまだ耳の中にのこっている めずらしいものには違いなかった スカートの中の小さい足は傷だらけだった 少女を終わっても 夏になると母は琵琶湖のほとりの病院に 今年もよろしくお願いしますと預けていった 院内が夏の匂いにむせかえるとわたしの戦争がはじまり 無数の馬たちが まっしろい花々を美しく踏み荒らし 貴族は滅び泥棒成金が生れ 小間使いのわたしは 真っ黒なガードルとレースの靴下が必要になった 「この子は」とうら悲しそうに母は言った それでも八度目の夏わたしは女教師になった 医者は何度かわたしを乗馬クラブに連れていった 「でもわたし、貧乏ですから」と言うと 「医院の馬だからいつでもつかえるようになっている」 わたしは戦争の間だけつかわせてもらうことにした やがてひとりで乗れるようになり 片足のないひとと同じくらい勇敢になった あれって、黒目の働きかしらね 追い詰めるようなうらやましいような看護婦たちの目から遠ざかり 八月の緑の中でガードルと靴下をつける わたしはお墓も仏壇もいらない けれどかあさんだけはきちんといれてあげようと思う 死んだひとは生きているものを守るというけれど 父さんはほんとに死んだのだろうか 「きっとゆきつくところまでゆきつきますわね」 やつれた母の声に 「いえ、事態はもっと繊細微妙です」 と落ち着いた医者の声がする 九月 わたしはまた電車に乗っている 今朝は新入生を二人紹介する手はずになっている |
地震がしずまると ひげが二センチ伸びていた これはまだ伸びるかもしれない つるといわず男がひげと思ったものは 毎夜毎夜伸びている 朝の気ぜわしい湯気のむこうで どうせきゅうりなんでしょと糠床をかきまわす妻の手は どこの女の手よりきめこまかい だが男にはひげが気にかかる 妻のいうようにこのまま糠床にしずめる気にはなれない 「きょうの鮭はいかが」 身の厚い魚紋のしっかりした鮭を差し出しながら 先回りしてこようとする妻に 「おまえ、きゅうりすきだろ。あれ、かじってみろ」というと 案の定「あんな気味悪いものかじれますか」 「でもおまえはあれを漬け込もうとしてたじゃないか」 「漬けたらひげも取れますよ」 愛想なく妻はいうが 男の留守にこっそり捨てる気はないらしい 伏せてあるちゃわんを男がかたづけようとすると 「やあだ、このきゅうり」とうれしそうに勝手から姪が舞い込んでくる 妻はいいつかった糠漬けをあげながら 「よっちゃん、それも漬けてみたらいいと思わない」 「おもしろい、おもしろい」 「でも、せっかくのひげが取れちまわないか」 「あら、おじさん、やってみなきゃわからないじゃないの」 姪の言葉に妻の腕が急に鳥肌立ってくるのが見えたが 男はきゅうりを掴んでくる 「だめ、さきに塩を、よっちゃんはやく」 金切り声の妻に 男と姪で塩もみしたきゅうりをひげを上にむけてさしこむと ひげは静かに床に倒れた その後糠床にはなにもおこらない ひげは抜けもしなければ伸びもしない 男は糠床へ入れたことを後悔したが 妻はなにくわぬ顔で糠漬けのきゅうりを食べ 男も食べた いよいよひげのきゅうりをと思った頃に 姪が飛び込んできて妻の手を取り、ふすまを閉め 「おばさん、こんなことになりました」 姪の声はそのまま消え入るような小声になっていったが 存外妻の声は明るく 「あら、こんなこと、切ればいいじゃない」 「でも、こんなにたくさんの中じゃあどれが伸びるかわからないし」 「はっきりわかってからでいいじゃない」 「毎朝気をつけて見るんですか」 「毎朝ってそんなに早く伸びるの?」 「あの日の間なんか、特に」 「そう、で、それは、ほかになにかわるさをするの?」 「いえ、ただ伸びるだけです」 「悩みってのはね、自分が思うほど他人様は気にしないものよ」 姪は少し気を取り直して帰っていった それからしばらく姪が来るたびに 男はようすが気になった しかし妻の手前聞き出せもせず 年頃の姪は見合いで結婚するという 食べそびれていたひげのきゅうりも そろそろあげどきなので 男があげると妻が八つに切り分けた ところが食べる段になると妻はいっさい箸をつけない 「ほら、あなたのご自慢のきゅうりですよ」 「うむ」 「食べないんですか?」 「いや」 男はいきがかり上全部食べ尽くし きゅうりはきゅうり と念じるそばからかゆくなり ほそいほそいものがたちあがる感触に思わず振り返ると 妻の後ろが明るんでいる 夜明けのように夕暮れなのだった
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