ビルの向こうはますます暗くなり そのうちに雨が降り始める
すぐに本降りになるだろう
まだしばらくこの店から出られない
と思ったころ
「シロザキ」という男が桂子の電話を鳴らす
ポップな電子音に呼び出されて
受話器に耳を当てた桂子の表情が とたんに明るくなる
シロザキ
しろざき 白崎 城崎 シロザキ…
どの字を当てるのかいまだに知らない
とにかくシロザキ
一月ほど前から桂子の話によく出てくるようになった男
会えば何かご馳走してくれて
何でも好きなものを買ってくれる男
お友達なの と桂子は言う
名前を聞かされたことは何度もある
実物を拝んだことは一度もないけれど
写真を見せられたことなら一度だけある
ちょっといい生活をしていそうな
派手な雰囲気の中年男だ
どこかの会社で部長をしていて
桂子に仕事を紹介すると言っていた男だったはずだ
君は働いていないのか?
そんなのはだめだ、と説教をして
自分の勤め先の部署に
桂子をアルバイト採用しようとしたという話
簡単な事務
電話番とか コピーとか お茶汲みとか
今いるパートのオバチャンがもうすぐ辞めるから
どうせなら次は若い子がいいよ とか何とか
桂子も乗り気だったはずなのだが まだ実現していない
いつ実現するかもわからない
このひとには 十歳年下のヒステリー気味の奥さんと
私大の付属幼稚園に通っている娘さんがいる
それから仕事中に外回りと理由を付けて会いに行く浮気相手が
二人いる
もちろん奥さんの癇癪の種
シロザキは桂子にはよく家族の話をするらしい
奥さんとの喧嘩の話が一番多い
だけどその次は必ず溺愛する娘さんの話になる
娘さんがヴァイオリンを習っていること
その発表会が近いこと
衣装を買いに行ったデパートで
ドレスの色の意見が合わずに人前で奥さんと大喧嘩をしたこと
「喧嘩ばかりなんだ 結婚当初からずっとそうなんだ
ものすごくわがままなんだ
おまけにヒステリー気味でね
年下だからって僕が甘やかすからいけないんだろうね
あまり言い争いをしているところを娘に見せたくないんだ
まだ五歳なんだ 賢い子でね すごくかわいいんだ
今度は英語を習わせようかと思っているんだ
個人レッスンを付けてくれるネイティブの先生が近くに住んでいるんだ
その先生というのが金髪の美人なんだ 子持ちだけどね
それでまた怒るんだあいつは
あの先生が目的で英語を習わせるんだろうと怒るんだ」
シロザキは桂子のスカートの中に手を入れたことがある
キスをしたこともある
桂子はシロザキからの連絡を待っている
けれど最近は連絡よりも無言電話がよく入る
奥さんが旦那の電話に入っている番号に手当たり次第に入れているのだ
溶けた氷で薄くなったアイスミルクティーを
先を噛みつぶしたストローでかき混ぜながら
桂子はまだシロザキ氏と話をしている
私が聴いているのにも
店員が「オシズカニネガイマス」と睨みつけているのにも頓着しないで
白い二の腕をふるわせてくすくすと甘ったるい声で笑う
そしてわたしはやっぱり「シロザキ」に当てる文字を知らない |