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高村光太郎

 

 
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母をおもふ
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母をおもふ   高村光太郎
 
 
夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。
 
「阿父さんと阿母さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
 
鑿で怪我をしたおれのうしろから
切火をうつて学校へ出してくれたあの朝。
 
酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。
 
立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。
 
やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。
 
さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。
 
母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。
 
 
 
 

●ルビ
阿父さん(おとうさん) 阿母さん(おかあさん) 
鑿(のみ) 切火(きりび) 
金釘流(かなくぎりう) 巴里(パリ)

 
 
 
 

底本:日本の詩 第5巻 高村光太郎集 伊藤信吉編 集英社刊

 

 
 
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