●詩を読んでいて、詩の言葉に「力」を感じないことがしばしばある。こんな詩にはもちろん「魅」せる「力」=「魅力」がまったくないともいえる。では言葉に「力」を感じないとはいったいなんだろう。 「言葉の力」とは読み手を引き付ける「魅力」的な文章にちがいない。読み手がその詩のなかに作者と共有できる感動や思想といったものを感じとったとき、初めてその文章に「魅力」を感じるのである。 ●詩は言葉を駆使して創り上げるものだ。だから詩を書くということは「創作」という行為が必ずおこなわれ、そこから「魅力」的な文章が生まれるのである。だがこの「創作」という行為を勘違いして詩を書いている人をしばしば目にする。それは「創作」と「想像」を勘違いし詩を脚色して書いている人である。 ●たとえばふたりの作者が恋愛の詩を書いたとしよう。ひとりは多くの恋愛を経験し、その経験に基づいて詩を書き、もうひとりは恋愛経験に乏しいが自分が理想とする恋愛感があり、その想いを詩を書いたとすれば、読者はどちらの詩に「魅力」を感じるだろうか。もうそれはいうまでもなく簡単なことで、経験に基づいて書いた詩のほうに「魅力」を感じるに違いないのだ。そこには経験という確かなリアリティーに裏付けされた言葉の「力」があるからにほかならない。言い換えれば、ほんとうに経験してきたことでしか人に感動はあたえられないとも言えると思う。またこれは恋愛だけにかぎったことではない。いま問題視されているテロや戦争についても、現地でリポートする生の声とスタジオでコメントする声では、同じ声でも視聴者に与える言葉の「力」は比べようもないほど違うはずだ。 ●このように現実を伴わない「想像」により作られた言葉にはどうしても脚色された作為を読み手に与えてしまうことになる。体験を通して一度自己のなかで消化された言葉には、同じ経験をした人の多くの共感と賛同を得られるのだと思う。 ●次に挙げる詩は龍秀美さんの「指紋」という詩で、この詩は詩集『TAIWAN』に収められ、この詩集でH氏賞を受賞された。 指紋 すぐその下をズキズキと 血と汗と神経が通っている 海流のかたちした渦巻きが 島ひとつでできた小さな台湾(ソコク)をとり囲み それを凝視(みつ)める眼のような 凝視め返す眼のような 十本の指 全部を採る ていねいに繰り返し採る 終生不変・万人不同 生きて在る絶対の位置 なだらかな山形をつくる(突起弓状紋) 時雨降る日本の山野 なつかしく あいまいな 愛する日本語(コトバ)の響きの波形 そしてわたしの裸身の曲線(カーブ) これがすべてと 日本(ソコク)に差し出す ここで言う「指紋」とはもちろん外国人指紋押捺という問題である。国籍とはなにか?という問いかけがおきる重い詩であると同時にその辛い状況を淡々と語っている。これがこの詩の「言葉の力」であると思う。重い事実を重くかたれば、読む方は脚色を感じてしまう。逆に事実が薄れてしまうことになる。事実を事実として感情を廃して書く行為に、読み手を魅了する詩の重みがある。二つの(ソコク)を持つという事実。「十本の指 全部」の指紋を採られる事実。日本人であり日本人として認められない事実。読み手はこの淡々とした語りに曳きつけられてしまうと同時に、その「言葉の力」に魅了されるのだ。 ●詩を書こうとする行為にはかならず感情が動く。だが感情の赴くままに詩作したとすれば、そこには読み手を魅了する「言葉の力」は薄れてしまうのだ。失恋しその場の感情だけで書いた文章を後日目にした時の馬鹿げさはない。 「言葉の力」とは経験に裏付けされ、一度自己のなかで消化された言葉から生まれるものだと思う。その言葉に読み手は賛同の拍手を贈り魅了されるのだ。 |
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