● ヒュームは「スぺキュレーション」のなかで 「すべての実存が見えてしまうなら、詩はいらないだろう。 なぜならすべてのひとが詩人だから」というようなことを書いている。 実存とはいったいなんだろう? それはこういうことだと思う。 今、目に見えているものは形であって実存ではない。 むしろ目に見えていない部分に ものの本質があって それこそが実存なのだ。その実存を表面に見せるために、 詩があり、詩人が必要なのだ。 ヒュームは実存を見るためにはレトリック(比喩)が絶対に必要だという。 ではレトリックとはなんだろう。 比喩にはみなさんもご存知のように直喩と暗喩がある。 「ヤリのような雨が降ってきたので、男は黒い傘のなかに埋没した」 という一見詩的な文章があったとしよう。 「ヤリのような雨」が直喩で、強く降る雨をヤリに例えている。 ただここにはひとつの問題がある。 それは「ヤリのような雨」という比喩には何のイメージも無いからである。 みなさんは常用句という言葉を知っていますよね。 「ヤリのような雨」はもう誰でも使う常用句で、 ここからはあたらしいイメージがなにひとつ出てこないのです。 「バケツをひっくりかえしたような雨」もそうです。 ● ではどう表現すればいいのか。 これはひとつの例ですが 「平手うちのような雨が・・」というように表現したとすれば、 平手うち=雨 という新鮮なことばの出会いが新しいイメージを作り、 読んだひとに新鮮な感動をあたえるからです。 平手うちのように強くたたかれている様子もイメージを増幅し、 男と雨の情景から誘発された実存が見えてきます。 では暗喩(メタファー)とはいったいなにか。 これをここで簡単に説明するのは不可能に近いが、大まかに概要だけ説明しよう。 上の文章を参考にすれば、 「埋没した」ということばのイメージに覆われている男の姿と雨の情景が暗喩である。 暗喩とは詩全体を支配する核となるイメージや言葉で、 ここでは「埋没した」から連想されたイメージ「埋葬された」「沈み込む」 「浮かび上がれない」「うらぶれた」・・・ などという多くのイメージが雨にたたずむ男に幾重にもかさなり 暗喩としての男の実存が 「うらぶれた男」「背中をまるめて帰宅していく男」「傘のようなちいさな空間から出ることのできない男」「リストラされた男」・・etc このようなイメージとしてこの短い文のなかに見えてくるのである。 またここでは「黒い傘」でなければならない。ピンクや水玉模様 の傘では「埋没」していく実存とかさなりあわないからだ。 このようにことばを選ぶとき、すべての文に全神経を注がなければならない。 最適のことばの選択こそが詩作の基本であるともいえる。 実存を見るひとつの方法としてレトリックがあり、ヒュームがいうように、 実存が無い文章はもはや詩ではないのだ。 ● 今回はレトリックだけを大まかに説明しただけなので、 これが詩のすべてと思われても困る。 詩は技法だけで書くものではないのだから。 ただデッサン(基本)ができない人は画家(詩人)にはなれないことは確かです。 次回はさらに詩の核心に入っていく。乞うご期待。 |
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